NO.86塞翁が馬(さいおうがうま)
先日、遠隔気功の際に、ある患者さん(女性)とお話しをしていたら・・・
彼女自身の「思い癖」という内容に話題が集中しました。
彼女の思い癖といえば、過去に、彼女自身が行った自分自身の行動に対して、
あれで良かったのか、それとも、悪かったのか、を常に考えてしまうそうです。
彼女の話を聞いている私としては、
もう、過去の事だし、それを、どうの こうの・・ と、今の時点で判断しても、何ひとつとして、生産的な事は生み出せないし、もう、どうでもいいんじゃない!
というような気分になりました。
彼女自身は、自分を幸せにしたいと思って、そうやっているのだと思いますが、
むしろ、そうやって、過去の事を繰り返し繰り返し思う事で、実は、そのような事をやっていても、逆に、運勢が悪くなるだけ!
何故かと言うと、
彼女自身の心の中で、思いが流れていないからなのです!
思いが空回りしているだけのです。
思いが流れる。という事と、思いが空回り。という事と、両者は大きく異なります。
たとえば、ダイエットをやっている方が、予定外に唐揚げ(チキン)を3つ食べてしまったとします。
「唐揚げか? きっと、カロリー高いし、3つ食べてしまったとすると、明日は、体重が逆戻り?
いや、参ったな〜 3つも食べずに、1つだけにしておけば良かったかな〜」
・・・・ と、唐揚げを食べた事に対して、思いがグルグルと回ってしまい・・・
なんと、1時間も、唐揚げの事を考え続けてしまいました。
もし、ですよ。
思いを流す事が出来たとしたら、
「まあ、いっか〜〜 唐揚げ3つ位なら大したことないよ。明日から、ダイエット、ガンバロー・・・」と、
なっ、なんと、思いが流れるまでに、たったの3秒
この違いは、とってもとっても大きいのです。
人の心って、
お祭りや縁日の屋台で売っている 「綿あめ(綿菓子)」を作っている作業によく似ています。
「綿あめ」を作っている場面、実際に見たことありますか。
綿菓子機(綿あめ製造機)の中心に、材料の粗目(結晶のあらい砂糖。ざらめ糖)を入れて、機械を回転させると、溶融した砂糖が、ごく細い糸状になり、空中に浮きます。それを、割り箸等で絡めて集めてゆくと、フワッとした、綿菓子(綿あめ)が出来上がりますが・・・
人の心の中で、思いがグルグルと勢いよく回っているとします。
すると、綿菓子のように、思いの糸(スモッグ)が発生し、その人自身に絡まってしまい、その人を中心に、綿菓子のように、フワッとした感じのスモッグに覆われてしまいます。
間もなく、梅雨時期ですが、厚い雲(スモッグ)に覆われてしまうと、太陽の光が通過できません。光が遮断されてしまうのです。地上の植物だって、光が少ないと成長に影響しますし・・・
実は、我々人間も、自分の身体の外側から、宇宙エネルギーを吸収しながら毎日暮らしているのですが、吸収できるエネルギーの量が少なくなれば、当然、元気ではなくなります。
あまりにも、スモッグが分厚いと、まったく、エネルギーが入らず、挙げ句の果てには病気?
常に思いを流して、スモッグを作らない。
これって、とっても、大切なことだと思います。
すでに、作ってしまったスモッグも、今、この瞬間にやってきた思いを流していると、その人自身の流れが良くなって、過去のスモッグも流れてゆきます。
思いを流すって、実は、「いいことずくめ」なんですね〜〜
というような事を、彼女にお伝し、その後、スモッグを取り払うために遠隔気功をしてあげました。
昔々の中国の話ですが、(簡単に書きますと) ある所に、老人が住んでいて、彼の持っている馬が逃げてしまいました。
馬は高く売れるので、おじいちゃん(老人)にとっては大損失でしたが、しばらく経ったある日の事、逃げた馬が、よい馬を連れて帰って来ました。
たぶん、放し飼いの馬を連れてきたのですよね?
馬が逃げてしまって、損失かと思ったら、逆に、おじいちゃん、得しましたね!
ところがです。
しばらくすると、老人の息子(Aさん)がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。
いや〜〜 大けがですか。これまた、大災難ですよね!
ところがです。それから1年位経った時、
異民族たちの襲撃が起こり、その地域の若者は皆、戦争へと、かり出されましたが、幸か不幸か、ハンディキャップ(身体障害)を負ったAさんは戦争には行けずに・・・
残念な事に、多くの若者達が戦死してしまったのですが、
戦争へ行けなかったAさんは、生き残る事ができました。
幸せだと思っていたものが、不幸の原因になったり、禍(わざわい)だと思っていたのが、次の幸運を繋がることもある。
というこんな感じの諺(ことわざ)ですかね〜〜?
我々、人は誰でも、それは良いことか、悪い事か、
起きた一つ一つの事に対して、イチイチ、判断したくなりますよね。
でも、塞翁が馬の例のように、一時的には、それが悪い事。と判断しても、時が経つと、または、見方が変わると
いや〜 それって、本当は良いことだったんだ! と、判断したり・・・
でも、更に月日が経つと、
いや、やっぱり、あれは、良いことではなくて、悪いことだったんだ。と、最初の判断が覆ったり・・・
一つだけ言える事は、良いことか、悪いことか、いつまでやっても「切りが無い」ですよ!
冷めた意見でごめんなさい!
人の判断、すなわち、人智で、事の真意を本当に理解するのは不可能ということになるのかな〜
起きた事には、すべて意味(天意)があるとは思いますが、それを、人智で計り知るのはとても難しい?
いや、人智で、天意を理解する事はできない?
ならば、開き直って、この私!
起きた事に対して、良いとか、悪いとか、イチイチ、判断しないように心掛けています。
でも、心掛けた。とは言いつつも、実際のところ、思いは次から次に湧いてくるものです。
残念な事に、湧いてくる思いを止める事はできません。
ですので、
「それはいいこと」「それはわるいこと」などなどと、判断しようとする思いがやってきたら、その思いに・・・
気づいたら、流す。
気づいたら、流す。
次から、次へと想いはやってきますから、1日中、「それ」ですよ。
いや〜〜 忙しい日々になりそうです!
では、今日はこの辺で失礼いたします。