NO.63 川の流れ

 
もうじき、梅雨ですよね~~
空梅雨も困りますが、大雨の梅雨も時には困りますよね~
雨がたくさん降れば、当然、川が氾濫することもありますしね~
 
そういえば、最近、政治の世界では、鳩山首相が引退しましたが、これから先、世の中、どうなってゆくのでしょうかね~~?
 
できれば、ですが、「あ~~~ 川の流れのように、穏やかに・・・」と、この世の中も、美空ひばりさんの歌のように、流れが穏やかであってくれればいいのですが・・・
 
私は、幕末から明治維新の頃までの歴史がとっても好きなので、毎週日曜日に放映される「龍馬伝」を楽しみにしているのですが、今の時代も、あの当時と比べ、勝るとも劣らない激動の時代のような気が致します。黒船こそ、やってきませんが、ある意味、その当時よりも川の流れが速いというか、激流のような感じが致します。
 
ところで、大雨が降った翌日に、河川敷へ行って、川の流れを見たことありますか?
大雨の後は、とりわけ、いろいろな物が流れ来ますよね。
たとえば、空のペットボトルだとか、ビニール袋に包まれた家庭ゴミや、以前には、なんと、利根川では車が何台も流されたこともありましたし。
 
流れてゆくゴミを見ながら、「あのビニール袋のゴミ、誰かが拾い上げないと、海へ流れ出てしまうのかな~~」なんて、余分な心配をしたりして。
 
そうなんですよ。
どこかで、誰かが、ゴミの存在に気づいて、それを拾い上げないと、ゴミは、流れ流れて、最終的には、海にまでたどり着いてしまうのです。たまたま稀に、途中でどこかの岸辺にでも引っかかるようなこともありますが、たいていの場合、ゴミは流れ流れて流されて、海が汚れてしまうというわけです。
 
実はですが、我々の心も、自然の河川と同じような仕組みになっているようです。自分自身の心の中を眺めていると、次から次へと、絶えず、何かしらの想いや感情が流れてきます。まさに、心の中に川の流れがあるという感じです。
 
人を思いやる想いや、プラス思考の想いなどは問題ないと思いますが、もし仮に、マイナスの汚い想い(ゴミ)が流れてきた時に、「ある工夫」がないと、そのゴミは、その人自身の潜在意識(海)へ流れ着いてしまい、自分自身が汚れてしまうという結果になってしまうようです。
 
自然の川の流れを眺めていたら、ビニール袋に入ったゴミが流れてきたとします。「アッ、ゴミが流れてきた」と思った瞬間に、そのゴミに気づいたということになります。
そのまま放置していれば、どんどん下流に流されて、最終的には海を汚してしまうので、もし、可能であれば、そうならないためにも、長い竿などを持ってきて、そのゴミを拾い上げれたらいいですが、でも、実際は無理な話ですよね~~?
 
仮に、ある出来事に対して「ムッ」と怒りが立ち上がったとします。心の中に「怒り」というゴミが流れたということになりますが、怒ったご本人さまが、そのゴミをそのまま放置していると、そのゴミは、流れ流れて最終的には海(潜在意識)へと、たどり着いてしまいます。
 
通常、我々は日々の生活の中で、たくさんの心のゴミを知らず知らずのうちに、海(自らの潜在意識)へ流し込んでしまっているわけですが、ただ、それでも平然と暮らしていられるのは、ため込んでしまったゴミの存在に気づいていない、もしくは、過ぎ去った過去のことなので忘れているから?
 
でも、そのゴミは、いずれ、いつの日か、形となって現れてくるようです。つまり、現象化です。常に、愚痴や不平不満で暮らしているとしたら、毎日、毎日、たくさんのゴミを自分自身の潜在意識の中へ流し込んでいるということになりますから、いずれ将来、マイナスの現象が立ち上がってきてもしかたがないかな~ ということになってしまうようです。
いや~~ 厳しい話ですよね~~ 
 
でも、誰だって、自ら率先して不幸の原因なんて作りたくはないし・・・
そうは言っても、時には愚痴の一つだって言ってみたいし、不平不満だって語ってみたくなりたいし、ゴミを作らないで暮らすということは、至難の技でもあります。
 
いや、いや、いや、これは、これは、たいへんな事になってしまったようですよ。
 
下手なたとえ話で恐縮ですが、ある寒い冬の日に、土手から川を眺めていたら、1万円札が流れてきました。「アッ、1万円札だ!」 と思ったその瞬間に、1万円札の存在に気づいた事となります。
 
その次ぎに、もし、「その1万円札が是非とも欲しい!」ということであれば、どうすれば、その流れてゆく1万円札を無事に拾い上げることができるのかと考えます。
 
もちろん、川の水は冷たいし、何より、それを欲しいと願っている自分は、残念ながら泳ぎが得意でありません。その状況全体を把握すると、川の中へ飛び込んで、1万円札を拾い上げることは無理だという結論に達しました。
 
「どこかに竿のような長い棒はないだろうか?」と辺りを見渡しました。
「ラッキ~~、あそこに、ちょうど、適当な長さの棒が!」
その棒を利用して、見事に1万円札を拾い上げました。
「やった~~~! これは思わぬ臨時収入だ!」
 
もしも、私たちの目の前に、奇遇にも1万円札が流れてきたら、このような行動に出るのが一般的には予想されます。
 
しかし、もし仮に「アッ、1万円札だ!」と気づいた瞬間に、衝動的に川へ飛び込んでしまったとしたら、どうなるでしょうか?
 
現実にはまず、そのようなことはあり得ないと思いますが、しかし、我々の心の中を流れている川の流れに関して言うと、このあり得ないようなことが頻繁に起こっているという感じなのです。
 
私は、泳げない。だから、水の中に入るわけにはゆかない。
しかし、肝心の1万円札は、今、川(水)の流れの中ある。
1万円札は欲しいけれども、1万円札が流されている川と、今、自分が立っている土手の上(陸の世界)とは、別の次元だ。そのように考えられるのは、客観性のお陰! 客観性という「ゆとり」がないと、自分の立場が分からずに、川の中へ、即座に飛び込んでしまいます。
 
この場合の客観性とは、流れゆく1万円札(対象)と、それに気づいている自分との間には距離があること。見られている対象と、それを見ている自分との二者が、そこには存在しています。
 
ある「怒り」の感情が、やってきたとします。
心という内なる川の流れに「怒り」というお札が流れてきたわけです。怒りの感情の赴くままに、「このバカ野郎!」と相手に向かって怒ってしまいまったら、それはもう、後の祭り。怒りの想いが流れてきたことを第三者的に気づくのとは大違いで、自らの足をさらわれたかの如く、怒りの想いと自分とが一体化となってしまい、客観性という「ゆとり」は生まれることなく、川の中へ、ドボン~~ と飛び込んでしまったことになります。まさに、怒り、イコール、私です。
 
もしも、客観性という「隙間(ゆとり)」が自らの内に働いていたとしたら、「怒り」というものが自らの内なる川を流れてきたとしても、「ああ、いま、私の内側に、怒りというゴミが流れてきたな~~~」と、気づくことができたなら、そのゴミとは一体化することはありませんから、ご自身の潜在意識の中には入らずに、入り口(玄関)で、阻止することが可能なようです。
 
またまた、下手なたとえ話で恐縮ですが、「誰も居ない家なのかな~」と思って、たまたま、ドアの鍵が掛かっていない玄関から、気の弱~~い、ドロボウさんが、抜き足、差し足、忍び足・・・ と玄関のドアを静~~かに空けて、中へ入ってこようしています。
 
家主がそれに気づいて、「エッ、何か、ご用ですか?」 と、声を掛けたら、きっと、気の弱~~い、ドロボウさんは、「やばい、気づかれてしまったな~~」と判断し、即座に逃げ去ると思います。
 
気づかれたら、これ以上は中に入って来られなうなるのです。心のゴミも、表面の心(顕在意識)のレベルで気づくことができたなら、それ以上深く(潜在意識)には入れないようです。気づくって、すごいことですよね~~