NO.46 霊的遺伝子
自分の人生は自分で切り開かなければ道は開けない。と、世間ではよく云われています。その為には、一生懸命に努力しなければならない。とも云われています。個人的な私の意見としては、それがすべてだとは思いませんが、でも、一理あるとは思います。
ただ、最も理想的なのは、「自分で道を開くんだ!」なんて、力まなくても、ただ、ただ、自然の流れに身を委ねていれば、それですべてがうまくゆくということであれば、これに優る生き方はないと思うのです。
しかし、現実はそう甘くはないというか、自然に任せているだけでは、見当違いの方向へ行ってしまうことだってあるようです。人間の運命は、始めから決まっているのでしょうか? 生まれた時点で、もう、すでに、人生のレールが引かれているのでしょうか? と、誰もが一度は問いかけてみたことがあるでしょう。
ひまわりの種が、ひまわりとして成長し、将来、ひまわりの花を咲かせるように、また、朝顔の種が、朝顔として成長し、将来、朝顔の花を咲かせるようにです。曲がりなりにも、ひまわりの種から朝顔の芽が出て、そして、蓮華の花を咲かせることは、決してありません。
あの一粒のひまわりの種の中には、自分自身が将来、どのように成長し、そして、どのような花を咲かせ、そして、どのような実を結ぶのか。というひまわりとして成長するためのすべての情報がインプットされています。
つまり、ひまわりの種の中には、生涯、ひまわりとして生き続けられるように、種の中の遺伝子にその情報が刻み込まれているというわけです。ひまわりが、ひまわりとして成長するために、努力や苦心することなく、自然の流れに身を任せていれば、自ずと、ひまわりになってゆくのです。
我々人間も人として一生涯暮らしてゆけるだけの情報がDNA遺伝子にすべて記録されていると言われています。・・・と文章が続くだけなら、世間一般で云われている遺伝子のことですから、いまさら気の学校の話題となるようなお話しではないのですが。
ここから先は、ちょっと科学の常識から脱線してしまうようなことになってしまうのですが、ご勘弁下さい。我々人間が備え持っている「人」としての遺伝子の中には、ただ単に、肉体的情報以外にも、人の運命を左右するような情報がたくさんインプットされているような気がするのです。
たとえば、いつ、どこで、交通事故に遭ってしまう。
たとえば、会社が倒産し、事業が失敗してしまう。
たとえば、ある人と巡り会って、結婚できた。
たとえば、ある国に旅行へ行ったら、何年ぶりかの知人と出会った。
たとえば、せっかく結婚したというのに、離婚してしまった。 などなど
そんなの偶然だよ。と言ってしまえば、もちろん偶然なのかもしれませんが、でも、そうでもないかもしれないよ~ ということでしたら、俗に言う「運命の糸」によって人生は操られているかもしれない?
生理的遺伝子が主に身体に関する情報を司っているのに対して、上記のたとえ話のような内容は、生理的遺伝子とは別のことのような気がするので、そのもう1つの遺伝子(?)のことを、あえて、この場では「霊的遺伝子」と呼ばせて頂きます。
ひまわりの種から、ひまわりの芽が育ち、そして、ひまわりの花を咲かせ、ひまわりの種が出来るように、人は、霊的遺伝子の情報のままに生きていれば、私たちの人生も、すべて、順調に運ぶようになっているのかな~ ということはですよ。すでに、自分自身の運命は、生まれた時から決まってしまっていて、運命というレールの上に載せられて、自由な選択肢もなく、ただただ強制的にインプットされている情報に従わされ・・・
なんだか、束縛されてしまっているような、まったく身動きとれないような、自由がないような・・・窮屈な感じと思われるかもしれませんが、しかし、実際には、たとえばですが、ある人が、ある映画を見ていたら、フッと閃きを感じ、急にアメリカへ行きたくなって、2週間後には旅行へと旅立った。とします。これは、単なるその人自身の思いつきの衝動であって、霊的遺伝子の情報とはまったく関係ないのかな~ というと、そうではなく・・・
彼自身の霊的遺伝子の情報の中に、アメリカへ行くことが、すでにインプットされていたので、彼は、その映画を見ることによって、アメリカへ旅立っただけなのです。つまり、必然の行為ということでありました。もし、霊的遺伝子の中に、アメリカへ行くことがなければ、たとえ、その映画を見ても、「ああ、楽しかったな~~」と思う気持ちはあっても、アメリカへ行こうという発想にはならないのかな~~
でも、このとき彼の意識の中には、「本当は行きたくないけど、でも、運命だから、仕方なく行ったんだよね~~」というような、強制的に何かをさせられたな~ という感触はまったくないと思います。
それどころか、アメリカへ行きたくて、行きたくて、ただ、自分自身が好きなようにしただけだよ。という感じです。霊的遺伝子の情報は、その人自身の感情レベル、思考レベルに作用し、その人自身がまさに、そうしたいな~ と思うような道筋を付けて彼をリードします。
つまり、自らに刻み込まれている霊的遺伝子の情報に従って生きてゆくということは、自分自身のやりたいことを、ただ、ただ、やりたいように自由に選択し、そして、それをやっているだけなのですが、それを別の視点から見ると、それがまさに霊的遺伝子の情報に添って生きているな~ この人は。ということになるのです。
たとえば、今現在、私が、仕事として気功治療をしていることだって「嫌だけど、仕方なくやっているよ」というよりは、私自身が興味の赴くままに、勝手気ままに生きてきた結果として、自然に、そこにたどり着いてしまっただけのことなのです。
つまり、自分の意志、イコール、霊的遺伝子に組み込まれた情報と、解釈して頂いても結構なのです。50年間、私が生きてきた軌跡そのものが、まさに、霊的遺伝子の情報そのものだったのね~~ ということになるのであります。
しかし、注意しなければならないことが一点あります。
霊的遺伝子の情報に従ってさえいれば、すべてがうまく運ぶという先程までのお話しは、あくまで自分自身の霊的遺伝子の情報が正常な場合のことに限っての話なのです。
もし仮に、遺伝子情報に「バグ」が入っていたとすると。もしくは、コンピューター上にウイルスが潜入して、ある情報が破壊されてしまったとすると従来通りの遺伝子情報がうまく伝達されません。
たとえば、以前、世の中をたいへん騒がすニュース(地下鉄サリン事件)となってしまいましたが、とても実力を兼ね備えた医師でありながら、オウムの麻原氏に師事し、麻原氏の命令に従って犯罪を犯してしまったという不幸なお医者さんがいらっしゃいました。
その方ご自身が大いなる意志(天)によって創造された時点では、彼の霊的遺伝子の情報の中には、そのような「誤情報」はなかったと思うのです。本当ならば医師として他の人を助けることが彼自身の役割であるようにと、天は、彼の霊的遺伝子の中に、そのような情報を吹き込んだのではないのかな? と私自身は思っております。(性善説、人は本来、善なる者)
しかし、いつの時点でか、彼の霊的遺伝子情報にバグが生じ、本来の在り様とは別の流れになってしまった。彼(医師)に限らず、世の中の多くの方が彼と同じように、多少なりとも自らの霊的遺伝子の誤情報の影響を受け、本来の道を踏み外してしまったようにと思える場面もございます。
オウムのことが、このホームページで紹介しましたが、別に深い意味はありません。癒しクリエーションはオウムとは一切関係ないですよ。誤解のないように、お願いしますね。(笑)
霊的遺伝子の誤情報のことを、宗教的には悪因縁とかカルマとか呼んでいるようですが、誤情報であるなら、それを改善しないと、本来、霊的遺伝子に示唆されている人生を歩むことはできません。
ひまわりが、ひまわりとして、成長してゆくように
人が、人として、成長してゆくことができなくなってしまう。
ということになるようです。
ここまでを要約しますと、人には、人それぞれの生まれながらにしての路線がある。その路線を歩いている限り、そこには、制約も、不自由さもなく、ただ、自分の意志に従っていれば、それは、すべて、その人自身の本来の路線となり得る。
ひまわりが、ひまわりとして、育つことに苦痛を感じないように、天に命を吹き込まれた私個人が、私個人の道を歩むことに、まったくの苦痛はありません。運命に従わなくてはならない。というような威圧的な感じはまったくありません。
しかし、もし、その路線に障害物があると、その路線を歩めなくなって、脱線してしまうこともある。ならば、障害物は除去し、本来の道を歩むことが大切! ・・・という結論になるわけです。
ここからがいよいよ、本日のメインテーマです。
自分自身の霊的遺伝子の情報に異常がなければ、つまり、バグがなければ、その人自身は、ただ、ただ、気の赴くままに生きていれば、必ず、その人自身の人生は成就する。ということになります。
でも、世の中を見渡してみると・・・
どうみても、まだ、あの世に旅立たれるには、ちょっと早いな~~ というような時期に、病気や事故等で、人生の途中で旅立ってしまう方がいらっしゃるかと思えば・・・
先に紹介しましたように、本来の人生とは別のことを、しでかしてしまったり・・・とか、なかなか、人生は、思う通りにはいかないようです。
本当は、こうしたいのに、でも、現実には、そうできていない! そうなっていない! ということであれば、それは、霊的遺伝子レベルでのトラブルがあるかもしれません。もし、そうなら、それを修正しないといけませんね。
そう言う私の人生、バグばっかりのバグ人生だったかな~~ だからこそ、バグを消して、まともな人生、送りたいな~~ なんて、憧れて、さまざまなセミナーに行ったり、多くの師を尋ね歩いたり・・・ 今、考えると、お恥ずかしい~~~
でも、霊的遺伝子の情報って、書き換えることができるみたいですよ~ まずい方向に導かれそうな運命のレールは、自ら軌道修正することが可能みたいですよ~ 超うれしい~~ 話ですよね。
ただし正常な情報に対しては、あえて書き換える必要はありませんから放っておいても問題はありませんが、おかしな情報は対処しないと、本来の人生を歩むことができないということになります。
霊的遺伝子って、なあに?
霊的遺伝子の中身を分解してみると、そこには、二つの要素があるいう感じです。
第一の要素は、方向性(内容)です。
あなたは、健康になりたいですか? それとも、病気になりたいですか?
これだって、選ぼうと思えば、自ら選択できる方向性なのです。
方向性、イコール、自らが希望している人生の内容! と、この場では思ってください。
方向性がないと、つまり、どのような内容を、人生の中でお望みか? ということが、はっきりしていないと、どちらへ歩んでゆけばよいのか、それさえも分かりません。それでは、次に移りますが、進むべき方向、進むべき道が決まったとします。
でも、それだけでは、事は起こりません。その方向性を、可能にするだけのエネルギーが必要です。第二の要素は、その方向性を決定づけるだけの強力なエネルギーが要求されます。霊的遺伝子の中身を分解してみると、この二つの要素から成り立っていることがよく分かりますが、方向性と、エネルギーと、この二つが揃ってこそ、始めて物事は成就するのです。
たとえば、仮に、今、あなたに、病気を治して、健康になりたいな~~~ という願いがあったとします。その願い、イコール、方向性には、必ず、いくらかのエネルギーが含まれていますよね。
強く願えば、より多くのエネルギーがその願いに含まれることになりますし、エネルギーが弱ければ実現しにくい? ・・・ということでもありますし、強く想えば、強く想うだけ、物事を実現化させるチャンスが多くなるということになるかと思います。強く念ずることが、物事を実現させる秘訣なんでしょうね~~
そこまでは、誰でもご理解の範囲なので、あえて、お話しするまでもないような事ですが、ただ、どんなに強い想いであっても、想念というものは、放射状に広がってしまうという欠点があります。
太陽光線を例にとりますと、太陽光線は太陽を中心に放射状に広がっていますから、太陽に近いところでは光の密度は濃く、太陽から離れるに従い、光の密度は薄くなります。
光の明るさはルクスとして表現されていますが、光源から1メートルの離れた地点で1000ルクスであったとすると、距離が2倍の2メートル地点になると、明るさは、距離の二乗に反比例し、2×2=4となり、4分の1の250ルクスとなります。だいぶ、暗くなってしまうというわけです。
このように、自分から発したある一つの想いは、時間の経過とともに、自分自身を中心に放射線状に広がってゆきますから、自分自身から発した想いは、時間の経過とともに、薄くなり、弱くなります。3年前に思った「ある想い」が、今ではまったく、役に立たないということでもあります。
まさに、タバコの煙のようです。
フ~~ と、口から吐き出した瞬間は、タバコの煙だな~~と、誰もが知覚できますが、ものの5分も経たないうちに、「さっきのタバコの煙はどこへ行ったっけ?」ということになりますよね。
ですから、ある物事を成就させるためには、同じ内容の想いを、何度も、何度も、繰り返し想わなければけない。ということになるようです。これが、一般的な想念に対して理解であり、物事成就の方法です。
ですが、もし仮に、ある想いが、太陽光線のように放射状には広がらず、レーザー光線のように平行線状態をキープし続けることができるとしたら・・・つまり、想いが放射状に広がらないのですから、時間が経過しても、想いの強さ、エネルギー状態が変わらず、想いそのものが、普遍のままであり続けるといういうことになります。
フ~~ と吐き出したタバコの煙をカメラで撮影したときのように、写真の中で見る限り、いつまで経っても、同じ状態を維持しているという感じです。想念が、想念としての性質である放射状の広がりを持たずに、想念そのものが、半永久的に同じ状態に固定化されることができたら?
以前、私がお世話なったことのある、ある密教(密教といってもさまざまな流派があります)の師は、その状態のことを「法が成就した」と云っていました。また、ある想い(願い⇒想念)を、そのような普遍的状態にまで意図的にもってゆく行為を、「法力を組む」とも呼んでいました。
法力を組むとは、物事を成就させるために、ある一つの想いを半永久的に放射状に広がらないようにと、固定化することを意図的に行うことらしいです。一度、法力として組まれた想念(願い)は、時間の経過とともに、必ず、実現するという性格を持っており、物事の原因に匹敵するそうです。
法力を組む作業は、物事の原因を作る作業であると、置き換えて言うこともできるでしょう。密教の世界といえば、弘法大師(空海)があまりにも有名ですが、彼は、日本の地に降りて、衆生の幸せのために、数々の奇跡を起こしているようですが、これは、すべて、先程の視点からみると、法力のなせる技なのです。
雨乞いの法力を使って、日照り続きの大地に雨を降らせて農民を救ったり、さまざまな奇跡を起こしたようです。法力化された想念は、想念自らが生き物のように、自由意志を持たされ、自由に動きまわり、そして、物事を実現させてゆくようです。
時には、人と人との縁を結び、時には、物を集め、ときには、お金を集め、ときには大自然を動かし・・・ と、示された方向性を実現するために、あらゆる条件を整えてゆくようですよ。
想念が、想念としての広がりを持たなくなった状態、つまり、想念が固定化された状態では、その内容が、良くも悪くも、必ず、実現してしまうということになるらしいですが、だからと言って、我々凡人には、想念を固定化させるなんて、なかなか難しいですよね~~
ならば、開き直って 想念は広がる。でも、ある一定の段階で壁にぶつかり、戻ってくる。という性質を利用して、別のやり方で、霊的遺伝子の情報に、よき影響を与えることができれば嬉しい限りです。不幸を導く内容だけは、ぜったいに避けたいですしね。
それでは、本題に入ります。
まず、成し遂げたい内容を決めます。
たとえば、今現在の病気を必ず治す。
たとえば、経済的安定を得る。
願う内容は、人様が不幸になる内容でなければ何でも結構です。ただ、今現在、失業中で求職状態なので、経済的に安定したいな~~ と思って、お金のことを念じるのと、一応、それなりの収入もあり、お金にはまったく困っていないのに、でも、もっともっとお金が欲しいからと、競馬で当たるようにと願うのでは、ちょっと、意味合いが違うかもね~ その辺のところは、良きご判断をお願い致します。
仮に、今、病んでいる病気を治したいな~ とします。
目的は決まりました。
通常ですと、病気が治りますように! とお願い事形式になりますが、お願い事形式は一切使いません。
私の身体は完全に健康です。 と、過去形で断言します。
これが第一ポイントです。
これから、将来起こるであろう結果を、現時点で、先に作ってしまうわけです。過去形、イコール、結果です。この世では、時間という流れがありますから、原因があって結果が出る。というのが一般的ですが、心の世界、いわゆる4次元以降の世界では、時間の概念が、この世の3次元世界とは異なるそうです。
ある結果を望むのであれば、望む結果を先に作ってしまうことが可能なのだそうです。原因があって、だから、結果が・・・ という方程式ではないのです。
結果を先に作ってしまうこと、あえて言えば、それが将来、3次元世界で形として現れるであろう結果を、今、現時点で、4次元以降の世界(こころの世界)で、形あるものとしてしまうということです。
仮に、病気を治す場合、健康食品を飲んで治したとしても、気功によって治したとしても、治ればそれでOKということでしたら、治ったという結果が欲しいのであって、そのプロセスはどうでもいいわけですから、結果だけに意識をします。望んでいる結果にだけ、すべてを集中するといいみたいです。
私の身体は完全に健康です。 グッと、強く念じます。実際にやっていただくと理解できますが、そう思った瞬間に「ありがとうございます」というような感謝の思いが湧いてくることもあります。
なぜかと言うと、もうすでに、自分自身の内側(心の領域)では、すでに結果が成ってしまったのですから! ありがたいな~~ と感じてしまうのです。後は、今、念じたことが3次元世界に現れてくるのを、ただ、ただ、待っているだけなのです。
この要領で、次のことを加えます。まず、正座、もしくは、イスに腰掛けます。座る姿勢の厳密さは問いませんが、とにかく、背筋は伸ばします。背もたれは使いません。そして、息を吸います。できれば、腹式呼吸によって、腹部に空気を満たします。
息を吸い込んだら、息を止めた状態にして、このとき「私の身体は完全に健康です」と、一度だけ、心の中で強く念じます。念じた想いのエネルギーが息を溜めておいたお腹の中に充満すると思って下さい。
そして、息をはき始めます。吸うときは鼻から、そして、吐くときは口からですが、息を吐く際、先程の「私の身体は完全に健康です」と念じた想いのエネルギーが、お腹から解放され、一気に宇宙全体に広がってゆくように想いながら、息を吐きます。
今、念じた想いのエネルギーが、宇宙全体へ広がって行け! と思うのです。
一連の作業が終わった時点で、呼吸を整えながら、願いがかなったことへ対して、「ありがとうございます」と思います。ありがたい感じがしなくても、ウソでも良いから、心の中で、「ありがとうございます」と言って下さい。
そして、息が整ったら、また、同じことを続けます。このような感じで、自分がやりたいだけやってください。(1日最低10回以上!)
このことをある方に話しましたら、「これって、自己暗示法ですか?」と言われますが、はっきり言って、自己暗示とは違います。
自己暗示の場合ですと、私の病気は治りました。と思った後で、でも、やっぱり、治るのかな~~ どうなのかな~~ と疑っていると、暗示効果は減少します。あまり、良き結果がでません。
今、私が紹介しています方法では、「私の身体は完全に健康です」と思った次の瞬間に、「いや、でもな~~」という想いがやって来ても別に問題にはなりません。
あなたから、宇宙へ向かって発した想いのエネルギーは、宇宙の壁(?)に向かって広がり続けます。宇宙は無限だとも言われますが、想念の壁(?)みたいなものがあるらしいです。
山びこと同じ原理ですが、「このバカ野郎、死んでしまえ~~~」と念じると、「このバカ野郎、死んでしまえ~~~」と、想念の壁から、その想いのエネルギーが、自分自身へと跳ね返ってきます。そりゃ~~ たいへんな話です。
私の身体は完全に健康です。と、強く念じたその想いのエネルギーは想念の壁にぶつかり、そして、自分自身へ、結果を引き連れて戻ってきます。つまり、何度も、何度も、同じ内容を念じれば念じるだけ、結果がでやすくなるというわけです。
人の不幸を念じると、念じたエネルギーの7倍の不幸が、念じた本人へ返ってくるそうですよ。また、人の幸せを念じた時は、念じたエネルギーの7倍の幸せが念じた本人へ返ってくるそうます。もちろん、自分自身の幸せを念じたときも、同じように、結果が返ってくるそうです。
あるとき、ある人が、祈っていただけでは何も変わらない。念じていても意味がないから、とくかく実行しなければ・・・ というようなことを言っていましたが、とんでもないことですよ。
物事の達成は、まず、想い念じることが基本ですからね。想いのエネルギーを集中させると、その集中されたエネルギーが、物事だって、人だって、自然現象だって、あらゆるものを動かすこともあるようです。
「私の身体は健康そのものです。ありがとうございます。」
「私の身体は健康そのものです。ありがとうございます。」
「私の身体は健康そのものです。ありがとうございます。」
「私の身体は健康そのものです。ありがとうございます。」
「私の身体は健康そのものです。ありがとうございます。」
「私の身体は健康そのものです。ありがとうございます。」
・・・・
と、終わったら、最後に、
「地球と、そこに住むすべての生きとし、生けるものが、しあわせになりますように!」と、この場合は過去形でなくて結構ですが、10回、念じて終わりにしてください。このことによって、自分自身に徳を積むわけですが、徳がないと願い事自体が成就しません。
これまでご紹介したやり方と非常に似たことが書いてある本がありますから、興味がありましたら、ぜひ、読んでみてください。
「自在力」 サンマーク出版 塩谷 信男著 です。
塩谷氏のやり方を実践される場合には、回数が25回と定められていますが、気の学校で紹介するやり方を実践する場合には、回数は適当で結構です。ただし、いずれにしても、できるだけ、何度も、何度も繰り返すことをお薦め致します。
自らの霊的遺伝子に刻み込まれてしまった誤情報に対して、正しい方向へ軌道修正をするには、プラスの方向性のエネルギーを、どんどん発信、放射する必要があると思います。
この方法以外にも、霊的遺伝子をよき方向へと変えてゆく技法はいろいろとありそうな気がしますので、機会がありましたら、また、別の方法もご紹介させて頂きます。長々とおつきあいありがとうございます。