NO.43 智のエネルギー

 
地球、太陽とくれば、いよいよ、最後は、お月さま!
月と言えば「智恵」と関係しているようですが、元々、あまり賢くないこの私が「智恵」の話をするのですから、それは、も~~う、大変なこと。や~~ 参ったな~ 一応、名前は賢一なんですけどね~~ どうしましょう?
 
突然ですが、月の意識って、とっても高いらしいですよ~
どちらかと言うと、月って、地球の付属物のように考える人もいるけれども、一説によると、地球さんの意識よりもはるかに高いそうですよ。本当かな~~ ?
 
月って、緑もなければ、海もなさそうだし、なんとなく、砂漠のようなイメージですよね。
砂漠のイメージから、智恵を想像するなんて、とても、とても・・・ という感じかな~~
 
でも、ねえ~。一説によると、月のイメージは、人間で言えば、たとえば、老いた人。地球は青年ということらしいです。でも、この場合の老いた人は単なる老人ではありません。数千年も長生きするという仙人みたいな風格があり、そして、イキイキとしていて、尚かつ、知恵者なんだそうです。
 
植物でいれば、松。それも、単なる松ではありません。風格のある老木という感じでしょうかね~~ 年寄り臭いと思われるかもしれませんが、一時期ですが、私は盆栽に凝っていまして、松を見る機会が多かったのですが、さすが老いた松には、何か不思議な魅力を感じましたよ。
 
その月と自分自身との意識を共鳴させることができると、自らが知恵者になれるらしいのです。と言って思わず、ガッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハ~~~ と、笑いが漏れてしまい、知恵者の風格丸つぶれ。私も知恵者にならねば・・・と、常々、志してはいるんですが・・
 
知恵者と言えば、ブッタがその第一人者かもしれません。ブッタのエピソードから、知恵者ぶりをご紹介しましょう。
 
ある時、農家の嫁が、ブッタに相談をするためにやってきました。彼女が言うには、「私の嫁ぎ先には意地の悪い姑がいて、毎日、たいへんな目にあっているんです。もう、我慢できないので、あの憎き姑を殺したいので、何か名案はありませんか?」と、こりゃまたビックリな話!
 
ブッタが言うには、「名案はあるよ。これからそれを教えてあげるから、必ず、実践しないさいよ。ただし、そのことは誰にも言ってはいけませんよ。あくまで自分の心の内にしまっておいて、こつこつと実践するのですよ。いいですか?」
 
「はい、わかりました。私の願いがかなうのでしたら、何でもしますから、教えて下さい」
 
そこで、ブッタは具体的な方法について、説明を始めました。
このツボには、毒入りのオイルが入っています。
このツボをあなたに差し上げますから、毎日、毎日、欠かさず、姑さんの身体に、マッサージをするように、丁寧にオイルを擦り込んであげて下さい。(今でいうオイルマッサージですよね。インドではアーユルベーダと言って、オイルを使ったマッサージが有名です)
徐々に、擦り込んだ毒素が姑さんの身体に浸透して、必ず、姑さんは近いうちに亡くなるでしょう。
 
アへェェ~~~ ブッタともあろう「お方」が、相談者に、殺人の仕方を指導するとはね~~~?
 
指導を受けた若い女性は、それは、それは、大喜びで、帰宅してゆきました。それから、数ヶ月後、再び、相談があると言って、彼女がブッタの元へやってきました。どうしたんだね? とブッタが尋ねると、実はですね。たいへんな事になってしまったんですよ。
 
1日も早く、毒でやっつけてやろうと思って、頂いたオイルで毎日、一生懸命にマッサージしていたら、憎きあの姑が、この私に対して、親切にしてくれるようになったんですよ。
最近は、あなたはすごく良い嫁だと言って、私のことをとても可愛がってくれるんですよ。
 
そんな風に変わってしまったので、今度は私の気持ちが重くなってしまって・・・
だって、殺してやろうと思って、一生懸命に、オイルマッサージをしてきたら、自分の心とは裏腹に、姑の気持が変わってしまうし、そうしたら、私も姑に対して、憎いという思いが消えてしまって・・・
 
でも、今まで、あの毒入りのオイルをたくさん擦り込んでしまったことは事実だし、たいせつなお母さんが死んでしまうのではと・・・ 今は、それが心配で・・・
 
毒をたくさん擦り込んでしまったけど、どうしたら、良いでしょうか?
 
実はだね。あのオイルには、始めから毒なんか、入っていなかったんだよ。いずれこうなるだろうことは、はじめから分かっていたから、あえて、あのようにお伝えしたんだが、一生懸命にマッサージした結果、姑とあなたと、心がうち解けたんだから、それでOKなんだよ。これからは、姑さんと仲良く暮らすようにね。
 
なかなかの知恵者ぶりですよね。ブッタの教えを示す中に、「ウソも方便」ということがあるようですが、ブッタはウソつきだったんだ。と思うかもしれませんが、国会で討論されていたような、「言った」「いや、言わない」・・・のような低レベルのウソではないみたいですよね~
 
また、あるとき、一人の女性が家族に連れられてやってきました。彼女の姿はやつれ果て、そして、彼女は、屍となった自分の子供(2歳位)を大切に抱きかかえて、ブッタの前に呆然と立ちました。
 
彼女の子供は数ヶ月前に病気で亡くなってしまったようですが、でも、彼女はその事実を認めることができずに、今でも、どこかで、自分の子供を治してくれる人が必ずいるからと信じて、自分の子供を抱きかかえながら、治してくれる人を捜していたようです。
家族の者達の話によると、悲しみのあまり、今でいうノイローゼになってしまったということでした。
 
ブッタに会うと、彼女はいきなり「あなたは、私の子供を生き返らせてくれる人だと、聞きました。どうぞ、私の子供を元通りに戻して下さい。」と、言って白骨化した子供をブッタの前に差し出しました。
 
え~~~ ブッタは何と答えたのでしょうね? 知りたいところですよね~~
 
驚くことに、ブッタは、はい、わかりました。あなたの願いをすべてかなえましょう。と、彼女に対して、言い切りました。ただ、それには1つだけ条件がありますよ。と、その条件を彼女に伝えました。
 
今まで、誰一人として、死人を出していない「家」の唐辛子を私の処へもってくるように。
 
それができたら、私はあなたの願いを何でもかなえてあげましょう。と言いました。
 
それを聞いた女性は大喜び!早速、村に戻って、家々を尋ね歩きました。
 
「あなたの家では、今までに、誰も死んだ人はいませんよね?」
「いいえ、昨年、おばあちゃんが亡くなりましたよ」
 
「あなたの家では、今までに、誰も死んだ人はいませんよね?」
「いいえ、5年前に、おじいさんが・・・」
 
「あなたの家では、今までに、誰も死んだ人はいませんよね?」
「いいえ、10年前に、主人に先立たれました」
 
・・・と、何処へ行っても、死んだ人が一度も出ていない家など、はじめからあるわけがありません。それでも、諦めきれずに、毎日、毎日、探しました。でも、そのような家はいっこうに見つかりませんでした。
 
数ヶ月後、最後に、彼女はあることを悟りました。そうなんだ。みんな誰でも、必ず、いつかは死ぬんだな~~ということが分かりました。だから、私の子供も亡くなっても仕方がないんだ。
 
人は必ず、いつか、死を迎える。ということが分かったんですね。その悟りをきっかけに、彼女はノイローゼから救われ、そして、今度はブッタの弟子になって修行を始めたそうです。
 
い~~~や、ブッタって、プロのセラピストよりも、すごいんですね。そんな人がいたら、一度は、セラピーを受けてみたいものですよね~ まさに、ブッタの知恵者としての一面が伺えるエピソードでした。
 
このように、智恵とは、人を幸せにします。
しかし、知識というものは、時には、人を不幸せにもします。
 
二十歳の頃、私は食事療法に興味を持って、ある食養の大家に弟子入りして、そして、食事療法について學びました。基盤になっている理論は、たしか、無双原理と言っていました。
 
あるとき、ある相談者が、やってきました。その相談者は、「おみやげ」ということで、地方でも有名だという和菓子を持ってきました。1日の来客が終わって、夜になったら、その先生は、その和菓子をゴミ箱へ捨ててしまいました。
 
朝、ゴミ当番だった私はそれに気づいて、せっかくのおみやげをゴミにするのはもったいないな~~と、捨てたものを拾い出して、包みを開いて食べてみました。
 
おお、実にうまい!
 
そのことは、すぐに、先生にばれてしまいました。
 
誰だ、菓子を食ったヤツは?
 
はい、俺です。 と名乗りを上げると、なんだ、お前は、砂糖が身体に悪いことくらい分かっているだろう! 知っているなら何で食べたりするんだ。と、叱られました。
 
私はそのとき、それはそうだろうけど、でも、そのお客さんがせっかく持ってきてくれたお菓子なんだから、捨ててしまったのでは申し訳ないし、作ったお菓子やさんのことを考えると気の毒で、お菓子自体に対しても気の毒で、・・・という思いがありましたから食べたんですが。
 
この人(先生)は、人の心をまったく分かっていないな~~ と思って、そのこと以来、その場を離れることにしました。まあ、破門ですよね。砂糖は毒だ! と世間で言う人がいますが、これは、あきらかに知識です。智恵ではありません。智恵か知識かは、実際に食べてみたら分かりますよ。甘いものだって、ときには大切です。人の心が和みますしね~~~
 
だから、砂糖が全ての人に悪いとは言えないことだと思います。でも、知識で固まった頭の人には、砂糖は相変わらず、毒にしか見えないようです。ただ、いつも、いつも、砂糖漬けでは病気になることもあるかもしれませんから、くれぐれも食べ過ぎには気をつけましょう。知識ばかりが心の領域に大きくなってしまうと、先の食養の大家のように、偏った考えになってしまうようです。ブッタとは大違いですね。
 
月の光(エネルギー)は、人の心の中の智の領域と関係しているようです。
月のエネルギーが、いつでも、自分自身の意識にそそぎ込まれてくるという人は、ブッタのように知恵者だそうです。でも、エネルギーの入り具合がよくないと、先の例のように、知識に偏った人間になってしまうこともあるようです。
 
時々でも結構ですから、お月さまが出ていたら、外に出て、ただ、ボーーと、月を眺め、月からエネルギーを受け取ってみるといいかもしれませんよ。特別なやり方はありませんから、ただ、眺めているだけで、月のエネルギーが、私たちの意識に入ってくるようです。
そして、智の部分が刺激され、智恵の領域が広がるそうです。
 
そういえば、先日、テレビで日木流奈ちゃんのことがやっていましたね。
流奈ちゃんと言えば、まだ、子供なのに、彼から語られる言葉は、大人顔負けのすごいことばかり。みんな、彼の元に集まる人達は、彼から語られる言葉によって癒されてしまうようです!ただ、ただ、大人として、頭が下がります。
 
彼の中には、異なるの二つの意識があるように思いました。
1つは、元々の子供としての流奈ちゃんの意識。これは、年相応の子供としての意識です。お母さんにも甘えたいとか、まあ、いろいろ。
 
そして、もう一つは、彼の意識を媒体として情報を送ってくる別の意識体。
流奈ちゃんの場合でしたら、もう、世の中を悟りきった老人のような語らいで、我々に対してメッセージを送ってくる存在があります。
 
流奈ちゃんって、月の意識と交流できるのかな~? 月のことを、Lunar(ルナー)とも言うそうですが、流奈ちゃんのご両親様は、彼が生まれる時には、そのことを知っていらっしゃったのかな?
 
月の意識と共鳴できるようになると、流奈ちゃんのように、智恵に充ちた人になれるのかな~ だったら、月と仲良くしたいな~ ということになりますが、ただ、せっかく、眠い目を擦りながらも、月を眺めて、月のエネルギーを受けたとしても、「ある事」をしていると智恵の泉は枯れてしまうそうです。ですから、その「ある事」はできればしない方が賢明だそうです。
 
その「ある事」とは何かと言えば、命令形を使わないで生活することだそうです。
 
○○ちゃん、学校から帰ってきたら、さっさと、宿題しなさいよ!
いつまで、テレビを見ているのよ。もう、いい加減にして、早く寝なさい!
なんて、このように命令形は?
 
おい、ビール、持ってこ~~い! タバコを買ってこ~~い!
なんて、奥さんに対して、命令形、やっていませんか?
 
このようにちょっとした会話の中でも命令形を使うたびに、自分自身の智恵の泉は枯れてゆくそうです。それはたいへんなことだな~~ ということで、私が考えた秘策としては
 
「ねえ、ちょっと、喉が乾かない?」と、家内に言ってみました。
 
すると、勘の良い嫁さんのことだから、「ああ、そうね、だったら、ビールでも飲みますか?」 なんちゃって、命令形なしで、「冷たいビール」がテーブルにやってくるというわけです。智恵ですよ。智恵。ガッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハ~~~ですわ。
 
しかし、何度も同じ手を使っていたら
「ねえ、ちょっと、喉が乾かない?」
「そうすか~ ビールなら、冷蔵庫に冷えていますよ」と、「冷たい答え」が返ってきました。まあ~ 仕方ねえな~と思いながら重い腰を持ち上げ、冷蔵庫までビールをとりにゆかねばならなくなってしまいましたよ。この度は、トホホ~~ ですわ。
 
あちらも徐々に智恵(?)をつけてくるので、それには、それなりの更なる智恵が必要となるわけです。
 
「おい、ビール持ってこいよ」と言ってしまうのは簡単なことですが、一言、命令形を使う毎に、確実に智恵の泉が枯れてゆくかも? いや~ 大変な話を聞いてしまったみたい!
 
いざ、実際に命令形を使わないという智恵の開発法、やってみるとなかなか大変!
でも、智恵が育つということであれば・・・ やってみる価値はありますかね~~
 
なぜ、命令形を使うと良くないのかについても、参考のために、少しだけ。
 
私たち人間を含め、すべての生命体は、本来、各人が自由意志というものを持っています。あくまで、自分が行った行為に対しての責任は自分自身がとるというのが前提となりますが、何を選択するのも一人一人が自由であるということが、自然の原則でもあるわけです。
 
ということは、誰かに命令されて、何かを行ったとなると、それは、自然の原則から外れてしまっていることですから、命令された側からすると、ある特殊な利害関係を除いて、お互いが対等な立場であったとしたら、そこには、何かしらの禍根が生じるわけです。
 
たとえば、誰かが、あなたに、何かを命令されたとします。そのとき、あなたの心の中で、ほんの一瞬ですが、何か、嫌な感情が生じた。と。感じたことはありませんでしたか?
 
日頃、このようなことはあまり気にしないで生活していますが、よく自分の心を観察していると、誰かに命令されたとき、ほんの一瞬ですが、怒り、もしくは、それに似た感情のようなものが、通常では生じます。
 
怒りというとオーバーに聞こえるかもしれませんが、別の言い方をしますと、命令形で何かを指示されて、それでも嬉しいと感じる人は少ないかと思います。一般的には、命令されると、された側には、何となく不快な感情、たとえば、「嫌」というような感情が生じます。
 
以前にご紹介したかもしれませんが、心の反応は、基本的には、「好き」「嫌い」「好きでも嫌いでもどちらでもない」の3つに分類できますが、「嫌い」という心の動き、つまり、「嫌だ!」という思いが、命令形を受けた後には起こります。
 
気づきの瞑想については、以前にご紹介しましたが、気づきの瞑想は、ただ単に、お腹のへこみ、膨らみを感じるだけの呼吸法(?)ではないということをご理解頂ければ嬉しいですのですが、確かに、基本練習としては、気づきの瞑想では肉体の動きを観察するということから始めます。肉体の動きを観察する。ということを通じて、自分自身を見つめることを習うわけですが、更に、気づきの瞑想を発展させてゆく中で、たとえば、肉体の動き(呼吸)以外に、自分自身の感情や、心の動きも観てゆくことに繋がってゆきます。
 
誰かに、何かを、命令形で指示されたとき、自分自身の心の動きをよく観察してみると、ときには、ムッとなったり、ときには、嫌気がさしたり、ときには・・・ となったり、心に微妙な変化が生じるのが分かるでしょう。
 
このように、命令形で指示されると、指示された側の心の中は、何かしら良からぬものが生じるわけです。
 
命令形で指示されたときに起こる現象として、怒り以外に、もう一つ大事なことがありますが、命令された側の心の中で、確実に、相手に対しての愛情が減ってしまうということがあるようです。
 
たとえば、
暑いね~~~ 喉でも渇かない! と私が嫁さんに言ったら、
愛する嫁さん(笑)が、ビールを積極的にもってきてくれた場合、
たぶん、彼女は、善意から、ビールをもってきてくれたのだと思います。
相手のために、何かしてあげたいな~~ という愛情(笑)からです。
 
いやいや、冗談ではなくて、この人は喉が渇いていて困っているのだから、ビールでも、持っていって上げましょう。という相手に対しての思いやりから、ビールを持ってきてくれたことになります。
 
しかし、「おい、ビールを持ってこ~~い!」と、こちらが一方的に命令したとなると、たとえ、持ってきてくれたとしても、あなたのためなら・・・ というような気持ちではありませんよ。
 
「まったく、いったい、あの人ったら、自分自身のことを何様だと思っているのかしら。私のことを何だと思っているのよね。お手伝いさんじゃ~ ないのよね。冗談じゃないわよ・・・」と、ブツブツと心の中で思われながら・・・
ドンと、テーブルにビールが置かれてしまうわけです。
お注ぎしましょうか? なんて、絶対に、言っては頂けませんよね~~
 
自慢じゃないですが、結婚生活18年、我が家では、まだまだ「お注ぎしましょうか」ってなことで、毎晩、ビールに酔いしれているのでございます。ビールに限ったことでは、まだまだ、ガッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハ~~~ ですわ。
 
余談ですが、中高年の人達の離婚が最近、多いと聞きますが、いつも奥様に、「おい、・・・しろ」「おい、・・・を持ってこい」・・・なんて、何十年も言われ続けていたら、それや~~ もう、愛情なんて、これっぽっちも湧きませんですよね~~
 
命令形は、愛情半減の大きな要因でもあり、また、相手の自由意志を完全に奪ってしまうのですから、気をつけねばならぬそうです。
 
ただし、命令形を使わなくなったら、逆に、ストレスが溜まってしまって、最近、どうも、身体の調子がイマイチだな~ ということにもなりかねないし、智恵を磨くのは、なかなかたいへんな道のりでありますね~~