NO.42 愛のエネルギー 2
イエス、キリストが残された教えの一つに
「求めれば与えられる」ということがあります。
私は純なキリスト教徒ではありませんから、イエスが伝えたかった真意は分かりませんが、「求めれば、何でも与えられるんだな~~」と、言葉通りに解釈しました。
求めれば、与えられる。
こんなシンプルな自然法則があるにも係わらず、我々は、なぜ、幸せ求めないのでしょうか? なんて、問われたら、ほとんどの人は、「そんなことないですよ。私は毎日、毎日、幸せを求めていますよ」と、答えるでしょうね~~
でも、求めているにも係わらず、誰もが幸せにはなってはいないですよ。という現実を見ると、もしかして、求め方が悪いのでは? ・・・と思ってしまうわけです。求め方にも、工夫というか、それなりの智恵が必要なこともあるようです。
求め方を間違うと、その反動がすごいというか、求めた分だけ、人は不幸になることもあるな~~ と私自身はしみじみと悟りましたよ。お恥ずかしい話ではありますが・・
人は誰でも幸せを求めています。
でも、結果として、すべての人が幸せを実感しているということでもなさそうです。
なぜなのかな~? 求め方? 自分は、今まで何を求めて来たのだろうか?
まず、第一に、求める内容を吟味する必要があるのかもしれません。
そして、その次ぎには、求める対象(相手)をしっかりさせることも大切です。
この両者がしっかりと理解されていませんと、真の幸せに近づきにくいような気がいたします。
それでは、人が幸せになるための条件について、考えてみましょう。
今の世の中ですと、まず、お金がないと生活できませんから、お金はぜったいに必要です。それに、身体が健康でないと。そして、ひとりぼっちでは生きてゆけませんから、適当な人間関係を持つことも必要です。できれば、趣味だってやりたいし、その趣味だって、できれば、上達したいし、できれば、その上達した姿を評価して欲しいと思うし・・・
趣味だけではなくて、自分自身の存在価値を感じてみたいし、ある程度の責任のある仕事にもついてみたいし、ときどきは旅行をしたいし、おいしいものも食べたいし、すてきな服を着てみたいし、温泉にでもつかってノンビリもしてみたいし、ステキな恋人を見つけたいなど・・・
ま~~ 生きてゆくためには、いろいろな条件が整わないと、我々は、物質的にも、また、精神的にも、満たされないというわけですよね。
でも、よく考えてみると・・これら一般的な願いは、たとえ、かなえられることはあったにしても、けっして、いつまでも永続するという保証がないことばかりです。
いま、健康でいても、あるとき、病気になってしまうことだってあるでしょう。
いま、商売繁盛でも、世の中の流れが変わって、いつの日か、必要とされなくなるときがあるかもしれません。
何が起こっても不思議ではない「娑婆」というこの世の中に生きていて、唯一絶対なる「しあわせ」を求めない限り、一時的には、幸せを得たような気分になっても、すぐに消え去ってしまいます。
何だろうね~~? 唯一絶対なる「しあわせ」 って!
お金があるから、幸せ?
健康だから、幸せ?
確かに、お金がある方が生活が楽には違いないでしょうし、また、健康である方が理想的ではありますが、でも、それが幸せになるために、絶対不可欠とは言い切れない一面があります。
今まで、お金には苦労したことがない。と言える程、お金持ちが、ある時、突然、事業で失敗し、すべて財産を失い、そして、それをきっかけに、「人の優しさ」に気づいたということで、お金が消えてしまったにも関わらず、でも、とても幸せですよ~~ という人を見たことがあります。
また、病気になってみて、やっと、自分自身の道が分かった。と喜んでいらっしゃった人もいました。
何のために、お金を求めたり、健康を求めたり、恋人を求めたり、生き甲斐ある仕事を求めたりするのでしょうか。
我々は、さまざまな具体的な幸せを求めて生活しているわけですが、突き詰めてゆくと、最終的には、心の安らぎ、心の平安を得るために、それらの幸せを求めているのではないのかな? という気がしてまいりました。ならば、始めから、幸せの核心を求めた方が近道なのかもしれないね。
世間的一般の幸せというもののイメージというものは?
お金があったら、幸せ!
健康であったら、幸せ!
有名な大学へ入れたら、幸せ!
すてきな恋人と巡り会えたら、幸せ!
理解のある旦那さまを見つけたら、幸せ!
もっと、能力があったら、幸せ! などなど。
・・・だったら、・・・とか、
・・・であれば、・・・とか
どうも、余分なものが付いてしまうようですね。
私は、それらの幸せを総評して、「たら、れば、幸せ」と呼んでいます。 「・・・だったら幸せ。 ・・・であれば幸せ」という幸せ感が悪いということではありませんが、ただ、「たら、れば、幸せ」を求めている限り、いつまで経っても、心の真の「やすらぎ」には至らない可能性があります。
・・・だったら、幸せ!
・・・であれば、幸せ!
という「たら、れば、幸せ」は、人が求める最終ゴールではなさそうですよ~~
「たら、れば、幸せ」は、真の幸福を得るための手段の一つにしかすぎませんし、手段と目的を勘違いすると、逆に不幸せになってしまうこともあるようです。充分に、気をつけなければならない点ですよね。求める内容を吟味するということは、幸せを得るための第一条件ななのかもしれません。
つぎに、求める対象についてですが。
私はまだ読んではいませんが、周りの人から、よく、お薦めされる本があります。みなさん、ご存じの「神との対話」という本です。チャンスがあったら、読んでみたいとは思いますが、なかなか、忙しくて・・・余談はさておき、人が本当に幸せになってゆくには「神との対話」が必要なのかもしれません。もし、神という表現に抵抗があるようでしたら、「天」でもいいと思うのですけど・・
「何かを求める!」というからには、「誰に、何を」ということになりますが、アイスクリームが食べたい! となると、アイスクリームを売っているお店で、アイスクリームを下さい。となるでしょう!靴屋さんに行っても、アイスクリームが買えるか、どうか?
心の平安を求めることが、真の幸せの第一条件であるということは理解できたとしても、それを求める相手を間違うと、これまた、不幸の始まりかもしれません。
最近、よく使われることばですが、依存症というものがあります。
一般的には、依存症というと、あまり良い意味では使われていないように思います。これは、依存する対象、つまり、何かを期待する対象が的はずれになってしまっているので、良く評価されないだけであって、期待する対象、いや、依存する対象さえ的を得ていれば、依存するということ自体は別に悪いことではないように思います。
依存と表現してしまうから、何となく問題となるのであって、表現の仕方を換えて、例えば、「委ねる」としてみてはどうでしょうか?
ただ、お酒の場合でしたら、アルコールに委ねるとは言いませんから、依存する対象を吟味する必要はありますが、期待(求める)する対象によっては、依存と言うよりも、委ねるという表現が的確かと思います。
誰に、何を、求めるのか?
心が寂しいからと言って、人に求めていても、やっぱり、真の幸せには近づけないように思いますし、人がダメなら、動物だ! ということでペットに求めても・・・
人が、真に幸せになるためには、まさに、神(天)との対話なんでしょうかね~~
神(天)と、私と、一対一の関係。
自分の意識が向かっているのは、人ではなく、物にでもなく、森羅万象を創造した大いなる意識(神)へ
この関係を維持している限り、人は、幸せから脱線することはないのかな~ という気がしますし、この関係がしっかりと築かれていれば、次には、人と人との関係、人と生き物との関係、そして、人と物との関係も、うまくゆくのではないのかな? とも思えるのですが、如何でしょうか?
人と、神(天)との関係は、垂直の関係、たとえば、上下関係のように。
そして、人と、人との関係は、水平の関係、たとえば、横との繋がりですね。
親子であっても、会社の上司と部下の関係であっても、この感覚でいる限り、人間関係に問題は起こらないように思いますが。
結婚したよ。でも、1年後には、離婚しちゃったよ。・・・と最近のカップルの現状はスピーデイーですが、よくよく聞いてみると、自分の幸せを相手に求めていたというケースが意外と多いようですね。
まあ、ある程度は、相手に対して期待がないと、お互いが一緒に居る意味がないので、期待するのは当然ですが、でも、お互いが満たされていない状態であったとすると・・・
たとえば、お互いの心が1つのコップだとします。
そして、お互いのコップの中には、半分ずつしか、水が入っていません。
本来なら、自分のコップが一杯にならないと、自分自身は満たされていない状況ということになりますから、当然のことのように、自分以外の誰かから、水を求めます。
求められたのだから、差し上げたいとは思うでしょうが、しかし、自分のコップには半分の水しかが入っておらず、もし仮に、無理をしてでも、自分の水を相手にあげてしまうとなると、相手は満足できても、でも、自分自身は枯渇状態! ・・・という結末に。
このような無理がいつも続くとなると、やっぱり、限界が来てしまうかも。
夫婦喧嘩、人間関係の悩み、さまざまな事件、トラブル等々、深く掘り下げてみると、ほとんど、これ! 人が満たされるには、求める対象が大切かもしれませんよ~~ そこで、この章の終わりに、ご紹介したいのが、平安の祈りです。
<平安の祈り>
大いなる意識よ。私が、あなたに、満たされ、愛されていることが
我が身の体験を通して感じられますように
私の知性と感性に、あなたの光を照らして下さい。
私の心が平安で満たされますように!
・・・と、1日のうちで、気がついたときにでも、たとえば、夜寝る前でも結構ですし、寝覚めたときでも結構ですし、興味がありましたら、この平安の祈りをやってみてください。
イエス、キリストが教えてくれたように、求めることが幸せの始まりだとするならば、これ以上の「求め」はないでしょう。究極の求めですよ。なんちゃって。
大いなる意識とは、私が勝手にそう呼んでいる呼び方であって、「神様」でも、「宇宙意識」でも、「天」でも、何でも、あなたの好きなように、適当に呼びかけて下さって結構です。
祈りの文を読んでいて、あれ、おかしいな? と思うかもしれませんが、「私を満たして下さい」とか、「私を守って下さい」とか、「私を癒して下さい」とか、世間一般のように、そう願っていないことが、この祈りの特徴です。
何故かと申しますと、もうすでに、求める以前に、そうなっているから。というのが前提にあるからだと思います。
私たちは、あまりにも忙しいものですから、それを感じる「ゆとり」がないというのが現状ですから、それを感じられるように、私たちの感覚器官を、もっと、もっと、鋭敏にしてください。という願いです。
その為には、私の知性と感性に、あなたの光を、つまり、聖なる宇宙エネルギーを注入してもらい、そして、汚れて鈍くなってしまっている(いや失礼!)感覚器官を正常にしてもらうということになるのでしょうか。(気づきの瞑想も、実は、感覚器官の浄化に繋がるそうです)
もうすでに、充分過ぎるほど、与えてもらっているのに、もっと、もっと与えてくれ! と願うのも、どうかな~~ と思えるような内容でしたが、欲の多い私としては、いや~ 参った。参った。
だいぶ、長い文章になってしまいました。
最後まで読んでいただきましてありがとうございます。